大阪の切子文化
江戸時代、
長崎の商人 播磨屋清兵衛によって
この大阪にガラス製法が
伝えられたと言われております。
その名残として、大阪天満宮正門脇には、
「大阪 ガラス発祥の地」
の石碑があります。
これをきっかけに、大阪天満宮界隈で
大阪のガラス文化が広まりました。
明治・昭和初期時代には多くの
ガラス工場と加工場が軒を並べ、
大阪のガラス産業は繁栄を極めました。
しかし、戦後になって、
消防法の規制や安価な輸入品に押され
そのほとんどが廃業してしまいました。
天満切子について
大阪のガラスの
灯を守るために
生まれた切子
大阪のガラス産業の衰退。
大阪の大手ガラス商社だった「カメイガラス」が廃業した際、師匠である故・宇良武一氏は「大阪のガラスの灯を消したくない」と考え悩みました。
大阪のガラス文化を守るため、試行錯誤する日々の中、新しい切子の形「映り込み」を重視したグラスを生み出すことに成功。
従来の切子に独特の輝きを与えたその器を「天満切子」と名付けました。
天満の人たちに
支えられて
天満切子は、できてまだ20年弱の工芸品です。
天満切子が生まれたばかりの頃、天満切子の映り込みの輝き、美しさを少しでも知ってもらうため私もあちこちを駆け回りました。
さまざまな場所でイベント出展や切子教室などを開催しましたが、特に地元天満では、天満切子を盛り上げようとたくさんの方たちが尽力して下さいました。
みなさんの力に支えられ、いまではたくさんの方に「大阪にも天満切子があるで」と知って頂けるようになりました。